赤壁とは?

「三国志」とは



現代に生きる「三国志」
[必要とする人材に対して、依頼者が礼を尽くすこと]
劉備が孔明を軍師として迎え入れるため、三度に渡り、孔明を訪ねることから生まれた言葉。
[必要不可欠な人(君臣の信頼関係)の存在の例え]
劉備と孔明の信頼関係を、水と魚に例えて生まれた言葉。
[人間は自分を傷つけることはない、と思い込む心理を突いた計略]
赤壁の戦いの際、司令官である周瑜により、鞭打ちの計に罰せられた黄蓋(こうがい)は、敵である曹操軍に投降するが、それは曹操軍に放火するという作戦の為だった。
[大勢の中で最も傑出した者。兄弟の中で最も優れている者]
劉備に仕えた馬良(ばりょう)が優秀な五人兄弟の中でも最も優れており、その眉が白かったことから生まれた。
[年を老いても、衰えるどころか、若者を凌ぐほど、意気盛んな様子]
「赤壁の戦い」の後、劉備に仕えた将軍「黄忠(こうちゅう)」の、老いても勇猛果敢だったことを物語る。
[私情を挟まず、全体の規律を保つためにやむを得ず、愛する者でも処罰すること]
有能な部下として認めていた馬謖が、命令に背き大敗を招いた際、軍罰の厳しさを示すため、孔明は涙をのんで、馬謖を処刑した。
[偉大な人物は、生前の威光が死後も残っており、人々を恐れさせるということ] 
孔明の死の知らせを聞いた魏の司馬仲達(しばちゅうたつ)は、退陣しようとする蜀軍の追撃を開始したが、反撃の構えを見せた蜀軍の動きに「孔明の死」という知らせの裏には何かの策略があると疑い退却した。
[危機が迫り、存続か滅亡かの瀬戸際である状況]
劉備の死後、その子、劉禅が帝位についた蜀は、三国の中で劣勢の地に立たされていた。
その際、孔明が「魏を打つべし」と奉呈(ほうてい)した「出師の表(すいしのひょう)」の中にある言葉。
[勢いに乗って勝ち進む、勢いが激しく、とどめることができないさま]
晋の杜預(どよ)率いる軍勢が、百年来の敵である呉の首都、建業(けんぎょう)に陸路と海路から一気に攻め込み、呉を勢いに乗って滅ぼしたこと。

【武 器】 矢をいっせいに発射することができる「連弩(れんど)」、食糧輸送に使用する「木牛」や「流馬」など、戦術に長けた孔明は、効率的な武器も数多く発明した。
【饅 頭】 川の氾濫を沈めるために川の神へと人柱を立てて、人の首を川に沈めるという風習を改めさせようと、孔明が小麦粉で練った皮に肉を詰め、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ川の氾濫が静まった故事から、饅頭が生まれたとする説がある。
【紙芝居】 国とはどういうものなのか、税金とはどういうものかというのを、字を知らない南蛮の人たちに紙芝居で教えるために孔明が考え出したと言われている。

邪馬台国の卑弥呼について書かれている「魏志倭人伝」の起源は、正史『三国志』。この書は、魏書・呉書、蜀書から成り立っているが、その中の、魏書にある「東夷伝」の最後に倭人(日本人)について2000字程度の記述がある。

義兄弟の契りを結んだ劉備に、生涯忠誠を尽くしたその義理堅さで、関羽は、後世の人々に神格化された。現在では、商売の神様として、世界中の中華街で祭られている。また、そろばんの発明者という噂もある。

日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同義のことわざが中国にもあり、「平凡な靴屋でも、三人集まれば諸葛亮の知恵」として、知恵者の象徴として孔明の名前が使用されている。また、「壁に耳あり障子に目あり」と同義のことわざがは、中国では「曹操の話をすると曹操が現れる」というが、それは曹操打倒の陰謀を図ると必ず露見してしまうことから誕生している。

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